『安全性の哲学』に学べ~1年間感謝~

今年も本ブログを読んでいただきありがとうございました。

原発事故以来、理不尽な政治や政策への怒りを
本ブログで発信して続けていますが
その政治・政策は改善されるところか
益々強くなってきている感があります。

ただ、国民やメディアの批判や要請によって
一部政策変更されたものもあり
今後も批判的な意見は必要であるはずです。
声を出し続ける事、発信し続ける事が
大切であろうと考えています。

原発事故から5年9か月・・・
もうそろそろ終わりににしようとも思っていましたが
一向に改善されない現状を見る時
今止めてしまう事は子ども達への償いを果たした事にはならず
子ども達の為にも来年も引き続き批判・注文記事を書いていく事にします。
お付き合い頂ければ幸甚です。

今年最後の批判記事は『国の安全政策』に対するものです。
原発事故後の放射能汚染や甲状腺がん、その他の健康被害に関しても
『安全哲学の欠如』によってもたらされる
国民・県民への切り捨てが進行中であり
以下の『安全哲学』をもう一度学ぶ必要があります。


以下はある物理学者のフェースブックから引用。
今の日本政府、とりわけ経産省や規制庁、
そして放射能の専門家と称する御用学者達が行っている安全とは
加害者や企業側の論理であり、公共の福祉に供するものでありません。


   ---以下転載ーーー


武谷三男編の「安全性の考え方」岩波新書 (初版 1967年5月)。50年前の本ですが、
現在の福島第一原発事故についても当てはまる内容です。
以下に幾つかのポイントを引用してみます。

第8章 原子力の教訓から

こうして日本学術会議のシンポジウムの席上で、武谷三男氏は次のような概念を提出した。「放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響を与える。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかもしれないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラスもある。そこで、有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて、"どこまで有害さをがまんするかの量"が、許容量というものである。つまり許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。」

...
第13章 安全性の哲学についてからの引用

安全を考える場合場合、いつも日本では、まず実施側のいわゆる専門家とか専門技術者たちの意見が、一番よく知っているという理由で大事にされ、彼らの"立場"ということは問題にならない。これが日本の安全問題の最大の欠点である。安全という問題には"公共"の立場に立った人が当たらねばならないのである。現代の安全の問題の中では、いつも"公共・公衆の立場"と"利潤の立場"の二つが対立している。したがって安全を考えるには、公共・公衆の立場に立つ人の意見が尊重されなくてはならない。

原子力発電についても同様である(黒川による注: 安価な石炭を得るために安全を無視したことにより、三井三池の大事故を引き起こしたこと)。大量の原子力発電が行われた場合の恐ろしさは想像に絶する。利潤や採算ほど勝手なものはない。国民の楽しい健全な生活を犠牲に供し、尻ぬぐいは国民の税金で行うのだから、こうして危険を警告するものを一笑に付したり、悪者扱いにして、あとは知らぬ顔である。

公害問題で一番問題になるのは、"微量長期の影響"という問題である。毎日影響を受けるのはごく微量のものだが、それが長い期間蓄積されて、ジリジリと影響を与えるという場合、特に潜伏期みたいなものがある場合には、あとになって現れた害、悪い影響が、果たしてそのものによるものかどうか、ということが、証明できない。因果関係がはっきりしないので、悪者がどれか、ということを指摘できないという悩みがある。その一番いい例が、放射能の問題だ。(黒川注: 低レベル放射線被曝の影響については、その後の疫学研究の進展によって、因果関係があることが判明している)

放射能の基準の話をしているときに、"原子炉の規制をあまりきびしくしてもらっては、ほかの工場排水などにひびくから困る。ゆるくしておいてくれなくては........"などという科学技術者がいたので困ったものである。(中略) それというのも、大事な根本になる安全性の哲学がないからなのだ。裁判は"疑わしきは罰せず"だが、安全の問題は"疑わしきは罰しなくてはならない"ということだ。公共・公衆の安全を守るためには"安全が証明されなければやってはならない"のであって、危険が証明されたときには、すでにアウトになっているのである。

何といっても、専門知識以前の概念の分析ということが非常に重要なのである。専門的に、技術的データを集めたところで、そのデータをどういうふうに使うかという考え方、いってみれば、"文明とか、公共という名における高度の哲学"というものがないといけない。概念の分析が十分でないと、かえって逆の結果を招くことになるので、科学者はもちろん、すべての人が、そういう高い立場の哲学を持たないといけない。ところが日本には公共という観念が完全に欠如している。日本で公共というのは、お上、国家と同義語だった。

利潤の側にいる人は"危険だ、危険だ"といったのでは商売にならないから"安全だ、安全だ"というにきまっている。一般に"危険だ"といってトクをすることはない。"危い"という人はいつも損したり、袋叩きにあったりする。それをあえていう人は、公衆の側に立っている人だ、だからその人の方を信用すべきだということである。

根本的には憲法の"基本的人権"をちゃんと守るということだ。日本では公共の福祉のために基本的人権を制限する方向でのみ公共という言葉が横行している。しかし、本来公共の福祉のために制限されるべきは"特権であって"人権"ではない。基本的人権を守るためにこそ公共の福祉があるのだということなのである。それこそが、「安全の哲学」の根本である。






























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